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Hyogo Triathlon Association

HTAのあゆみ

■はじまりは
 持久力に自信を持つ人たちが、日本で初めてトライアスロン(スイム+バイク+ランを連続して行なう複合スポーツ)にチャレンジしたのは昭和56年(1981)の皆生大会(鳥取県)のこと。その後、トライアスロンは“知る人ぞ知る”という耐久競技としてじわじわと注目されはじめたが、大きな大会が地域振興のため、町おこし・村おこしの新しくて風変わりなイベントとして全国的に知られるようになるのは、昭和60年(1985)、ちょうど、プラザ合意がなされ、日本が後に言われるバブル経済への助走が始まろうとしている時期であった。
 この年4月に、全日本トライアスロン宮古島大会(沖縄県・スイム3km+バイク140km+ラン42km)、6月にアイアンマンジャパンinびわ湖大会(滋賀県・スイム3.9km+バイク180km+ラン42km)、10月には日本トライアスロン連盟(JTF)主催によるジャパン・トライアスロン・シリーズ天草大会(スイム1.5km+バイク40km+ラン10km)が相次いで開催され、テレビによる全国放映も重なって多くのアスリートに注目されるようになり、当然のことながら大会が増えるにつれ、大会主催団体による組織や、各地でトライアスリートによるクラブが自然発生し、横のつながりを求めて協議会がつくられるなどして、さらには全国的な組織も誕生していったのである。
 その一つ、日本トライアスロン協会(JTA)が発足したのは、昭和61年(1986)3月。その後、全国の都道府県に徐々に協会がうまれていき、その加盟団体としての兵庫県トライアスロン協会をつくり、兵庫県下でも大会開催を目指し、普及を進めよういう動きがおこったのも当然の成り行きであった。
 当時、県域各地に支部を持つ老舗のクラブ、兵庫トライアスロンクラブの主たるメンバーが中心となって、兵庫県トライアスロン協会設立発起人会が持たれ、そして昭和62年(1987)10月24日、芦屋市において設立総会が行なわれ、協会は事務局を神戸市東灘区において発足した。

■発展・混乱期を乗り越えて
 協会は、さっそく大会を開催する。昭和63年(1988)、淡路島の西淡町でトライアスロン大会を、次いで但馬地域の大屋町でバイアスロン(現在のデュアスロン)大会を行ない、普及へと乗り出していった。こうして、任意団体としての協会は、さらにマラソンやクロスカントリーなど次々と大会を開いていったのである。
 ところが、発足したこの年及び翌年には、すでに初代・米田理事長をはじめ、当初、協会設立の牽引力となった主だった複数の理事が辞任していった。事務局から呼びかけられて補充された理事は、できたばかりの数少ない大会を無くしたくない思いから、その後も協会に留まり、協会運営をサポートしていくことになった。
 なぜ、当初の理事たちが離れていったのか? なぜサポートにとどまったのか?
 それは、協会の所在地が、事務局長が代表取締役を務める企業内にあり、日常の事務局の対応も社員が行い、非営利団体であるべきはずの協会と企業の区別がつかず、実体が見えなかったからであった。したがって、理事長、理事といっても大会前のスタッフ会議や大会当日の審判を務める、というのが主な業務で、数少ない理事会ではあっても大会の打ち合わせにとどまり、協会全体の運営については、ほとんど関与していないという状況が続いたのであった。
 せっかく兵庫県で初めての大会が淡路島で始まったのにもかかわらず、その間に地元との確執があったのか、翌年は開催できず、次年度から二回は明石・二見の人工島での大会開催となり、さらには西播磨の相生へと会場の移転を余儀なくされていき、最終的には赤穂海浜公園や播磨中央公園など、閉鎖区域内での大会開催のみに収斂していったのである。すなわち、大会開催は行なわれるが、その質的向上がはかられず、大会としての人気もあがらず、地元住民に愛される魅力ある大会へと発展していかなかったのであった。
 この状況に転機が訪れるのは、まさに外部情況であった。
 それは日本におけるトライアスロン界の主だった組織であった日本トライアスロン協会と日本トライアスロン連盟の統合の問題と、平成5年(1993)、神戸市で行なわれたアーバンリゾートフェアの一環として行なわれた「KOBEアーバンカップ六甲アイランド夢レース」(トライアスロン・ディスタンス)での出来事であった。この大会での神戸市との競技運営の打ち合わせのプロセスで、理事たちの改善提案を受け入れない事務局との間で、ついに競技運営の要を占める主な理事が離反したのである。
 社会的な責任から、レースそのものはなんとか支えたものの、翌年に控えたトライアスロン界の統合に向けて、新たな協会運営体制にならなければ、「兵庫県のトライアスロンのために、トライアスリートのためにならない」と考えた提理事長(2代)、渡邊副理事長をはじめ、大半の理事は新たな執行体制を築くことに同意し、11月に臨時理事会を開催、事務局長を解任し、事務局をも移転したのである。
 トライアスリートへの署名活動を展開し、県下のトライアスロン・クラブの大半の意見を集約した新執行部は会員の圧倒的支持を受け、平成6年(1994)4月、日本トライアスロン連合(JTU)の発足に合流、JTU加盟団体として新たな出発をしたのである。当然、それを認めない事務局長側は、しばらくは協会名を名乗り、平成7年(1995)初頭まで、混乱状況を生むことになった。

■新生してから21世紀に向かう
 再出発した協会は、若さと明るさのある組織として、新たに会長に就任していただいた末松信介氏(当時・兵庫県会議員)をトップに、提理事長、清水、渡邊両副理事長、阪井事務局長の執行体制で対外的な広報に務め、徐々にその存在をアピールしていった。もちろん、組織運営についても、スポーツ団体として民主的運営と情報公開原則をもとに、常任理事会を月例で開き、JTU及びJTU近畿ブロック協議会での情報をいちはやく会員に伝え、また、逆に兵庫での情報を全国に伝えるようにしたのであった。
 そんな矢先に起こったのが、平成7年(1995)1月17日の兵庫県南部大地震による阪神・淡路大震災であった。被災地での会員には、ケガ人はあったものの幸い死者を出さずに済み、2月に大阪で臨時常任理事会を開催、トライアスロンどころではない協会としても何らかの行動を起こすことを決め、柳常任理事をまとめ役に、兵庫県ボランティア協会の協力を得て、「仮設住宅への引っ越しボランティア」を行なったのである。延べ6ヶ月間にわたって75件の引っ越しをお手伝いした。力仕事のお手伝いというよりも、会員の最大公約数で、今われわれができることを模索した結果のことであった。
 阪神・淡路大震災は、未曾有の深刻な被害を被災地にもたらしたが、この新生した協会に限っていえば、それが逆に良い方向に向かっていった。
 そして、この間の事情を理解し、両者の調停に乗り出そうとしたJTUの佐々木理事長(初代)をはじめ、大塚事務局長、及びJTU近畿ブロックの各府県協会・連合とも、旧体制の間に途切れていた交流を再開し、良好な関係を持つようになっていった。まさに、雨降って地固まる、という状況になったのである。
 そして4月には、JTU佐々木理事長と執行部が会談し、事実上、兵庫県協会問題は決着し、この年7月、春過ぎまで震災復興事業の資材置き場となっていたグリーンピア三木での「第9回グリーンピア三木トライアスロンフェスティバル 兼 兵庫県トライアスロン選手権大会」では、キッズ・ジュニアの参加費を無料にして、小学生・中学生及びそのご家族にトライアスロンを楽しんでいただいた。夏には、県北・但馬の「竹野ちびっこチャレンジレース」(城崎郡竹野町)に競技運営協力の依頼を受け、子どもたちの大会開催の大切さをさらに痛感していくことになる。
 この年を契機に社会的認知度が高まった協会は、平成8年(1996)には財団法人兵庫県体育協会に加盟し、この年9月、市制80周年を迎えた尼崎市の記念事業として開催された「尼崎ジュニア・トライアスロン大会」の競技主管を行ない、実績を積んでいった。
 平成10年(1998)には、全国でも先駆けとなる兵庫県生涯スポーツ連合に加盟したが、これも、競技スポーツと生涯スポーツの両輪を合わせもつトライアスロンの特性からは、至極当然のことであった。
 このように、いろいろなジャンルにおいて、協会の活動をアピールしていくことが、普及につながり、周囲の理解をさらに増していくものであることを実感する日々が続いたのである。
 交通量の多い兵庫県下にあって、大会開催が困難ななか、協会独自の大会を開催したいという熱意が周囲の理解をいただき、丹波地域の氷上郡青垣町(現・丹波市)で、平成11年(1999)5月、子どもから大人までが楽しめる「ファインキッズ・トライアスロン兵庫青垣大会」が実現できたのも、地元の大原常任理事(当時、理事)の3年にわたっての熱心な活動が実った表われである。
また、トライアスロンがオリンピック正式競技となり、JTUは日本を代表してトライアスロンの普及と強化に取り組んでいった。
 平成11年(1999)には、そのJTUと地域加盟団体との情報交流の要となるJTU近畿ブロック協議会会長(JTU理事)に渡邊副理事長が就任し、名実ともに近畿ブロックのまとめ役としての職責を果たすようになり、JTUにおける兵庫県協会の存在が、さらに明確になっていった。
 平成12年(2000)はトライアスロンがオリンピックに登場する記念すべき年となった。北摂の猪名川町において、日頃鍛錬している実業団「チームテイケイ」所属の小原 工選手、西内洋行選手は健闘し、それぞれ21位、44位という成績を残した。
 日本代表選手は、それこそ、歴史に残る闘いをシドニーで展開した。多くのトライアスロンに思いを寄せる人々の期待を担って、日本人としての誇りをもって、シドニー湾の水に飛び込み、シティを疾駆し、風を切って走った。その姿を地元で観た約30万人の観客、さらにはテレビ放映で見た多くの人々にトライアスロンへチャレンジする灯火がつくこと願ったものであった。
 また、2008年の大阪市へのオリンピック大会招致についても、開催決定にむけて、JTU近畿ブロック協議会の一員として、大阪府トライアスロン協会とともに招致に努力したが、成長著しい北京に敗れ、残念な結果となった。
 この間、1993年に一度経験した六甲アイランドにおける都市型トライアスロン大会の再開をはからなければならなかったのだが、舞台であったマリンパーク周辺の震災復興はなかなか進まなかった。
 しかし、「兵庫のじぎく国体」を視野に、平成14年(2002)に経験者対象の大会を、平成12年(2000)に淡路花博が開催された国営明石海峡公園周辺コースで、開催することが、関係団体との協議で決定された。久しぶりに51.5kmのレースが県下で開催されることになったのである。

■「のじぎく兵庫国体」に参加
 平成13年(2001)は、阪神淡路大震災の復興記念事業の一環として「ひと・まち・みらい アクアスロン大会」が神戸市のアジュール舞子海岸で開催された。この大会は神戸新聞社との共同事業で、一年限りのイベントだったが、300名を超える参加者で大いににぎわった。バイクのないこの大会も、参加のハードルを低くする意味でも、普及に大いに役立つ大会となった。
平成14年(2002)、トライアスロンは「よさこい高知国体」で、デモンストレーションとしてのスポーツ行事(以下デモスポ行事)に初めて参加した。(社)日本トライアスロン連合(以下JTU)の加盟団体の多くが視察に訪れ、HTAも国体に向けて具体的な準備に入ることになった。
 この年、先述した淡路町・東浦町(現・淡路市)と神戸新聞事業社との共同事業として、国営明石海峡公園周辺特設コースにおいて、オリンピック・ディスタンス(51.5km)のトライアスロン大会を開催した。これは平成18年(2006)に開催される「のじぎく兵庫国体」を意識した大会であった。この大会は淡路氏の支援もあって、その後毎年開催され、本番の「のじぎく兵庫国体」では、県民のみの参加資格にもかかわらず、300名余のアスリートが参加し、栄えあるチャンピオンには三木邦彦、久保田早紀の両名が輝いた。
 また、11月には、HTA設立20周年記念式典が兵庫県民会館にて開催され、大いに盛り上がったことも記憶に留めておきたい。記念品として、HTAのロゴ入りアクリル製のラゲージタッグを製作し、出席者に贈呈した。
 さらに、兵庫県生涯スポーツ連合主催の「ひょうご生涯スポーツ大会」にデュアスロン競技で参入した。参加資格を35歳以上とし、ミドルエイジ以上のアスリートが和気藹々として参加する大会として設定した。トライアスロンの入門競技、あるいは独自の教義として、デュアスロン、アクアスロン大会も、競技普及の入り口として継続していくことになる。
 一方で、平成20年(2008)2月、北京オリンピックを目前にした時期、突然の暗雲が訪れた。2大会連続のオリンピック代表・田山寛豪選手の所属する実業団、「チームテイケイが廃部される」という知らせが、合宿中の宮古島に滞在中の八尾彰一監督(HTA常任理事・国体監督)から届いたのである。
 原因は、いろいろ取沙汰されたが、真相は知る由もなく、オーナーの判断なので「覆水盆に帰らず。所属先を失い、安心して練習に打ち込む環境を失った監督・選手は、新たな道を探りながら、北京オリンピックを迎えることになる。
 この間、田山選手は日本代表の権利を獲得したので、HTAは、オリンピックが終わるまで、選手・監督をサポートしよう、と募金活動を開始した。全国から集まる支援金に対し、「ひょうとら君」のステッカーを配布し、活動資金の足しにしてもらえたことで、協会として一定の役割が果たせたのではないだろうか。

■先行き不透明な時代のなかで、新たな展開が待っていた
「のじぎく兵庫国体」、「北京オリンピック」を終えて、長引く不況のなか、平成22年(2010)、淡路大会は諸般の事情で開催できなくなった。参加費だけでの運営が難しい大会の場合、協賛企業などの大きな支援がなければ、事実上、開催は不可能になるという現実だった。まさに、経済状況が良くないのが当たり前という状況のなかでトライアスロンが試される時代になったのである。大会運営側にとっては、資金が少ないという前提での開催となり、アスリートにとっては、所得が伸びない、あるいは低減するなかでのトライアスロンとのかかわりを自問自答するようになったのである。
 一方で、参加者が殺到した東京マラソンに見られるように、制限時間の緩い都市型市民マラソンが人気になっていった。エコロジーが普通に語られるようになり、自転車の有用性も再評価され、ちょっとしたブームになる。その反映か、JTUの全国的なスポーツクラブとの提携が功を奏したのか、ゼロ年代半ばまでは300名台を推移していたHTAの会員数は増加に転じ、平成21年度(2009)には400名を超えたのである。
 同年、トライアスロンは「トキめき新潟国体」で初の公開競技となる。この大会で、我が兵庫は、世界選手権やワールドカップを転戦する日本代表などが参加するなか、成年女子15位(高野紀子選手)、成年男子22位(木庭和彦選手)という成績を収め、大いに健闘した。千葉、岐阜、東京と続いた公開競技では、平成25年(2014)、「長崎がんばらんば国体」で、女子で中島聖子選手が5位入賞、前田隼矢選手が9位という、過去最高の成績を収めたのである。次なる目標は、晴れて正式競技となる「希望郷いわて国体」での8位入賞であった。
 平成22年(2010)9月、市民団体が主催者として名乗り上げ、HTAが競技運営に専念できるという大会が実現した。全国でも有数の住宅地である阪神間の芦屋の浜でアクアスロン大会が生まれたのである。この大会は、地元で長く活動している「NPO法人芦屋市民まつり協議会」の発案から、短期間の準備で実現することができた。コミュニケーションを密に取り、大会運営のアドバイスと競技運営の専念とのバランスがとれ、まさに市民の力が大会運営の土台となり、手づくりの雰囲気が味わえる大会として成長していく。これにより、県下でトライアスロン、デュアスロン、アクアスロン大会が勢ぞろいすることになったことは誠に喜ばしく、大きな成果だったといえる。
 芦屋市は神戸市の東隣だが、今度は西隣の明石市の大蔵海岸で、アクアスロン大会が実現する。かつて起きた花火大会での不幸な事故をふまえ、市民の前向きの姿勢を示すとともに、明石をもっと元気にしたいという市民活動団体、「明石・時・感動推進会議」が、初めてスポーツ事業に取り組むことに、地元の理事たちが共鳴し、実行委員会を形成して、成功を収める。
 芦屋も明石も市民団体が主で、手づくり感溢れる素敵な夏のスポーツイベントとして、ジュニアから高齢者アスリートまで、毎年、300~400名が参加するという、夏の風物詩に育っていく。
 次いで、平成23年(2011)9月、新たな大会が実現する。県中央部の加西市で、51.5kmのトライアスロン大会が行われることになった。これは、2年前から準備されたものだったが、当時の中川・加西市長と末松会長のご縁にて、「ため池を資源とする新たなスポーツイベント」という発想のもと、行政及び地域団体と地元近隣の理事たちで、大会運営の準備を重ねてきた結実である。音頭をとり、実現されたのは、その年、当選されたばかりの現・西村市長であった。
さらには、平成22年(2010)、第24回グリーンピア三木トライアスロンフェスティバルにおいて、全盲の女性・柏木桂子さんがトライアスロンにチャレンジし、完走するという、全国でも記憶にない快挙が達成されたことは特筆に値する。もちろん伴走者・大西理事(現・JTU近畿ブロックパラトラ委員長)の支援・協力あっての完走だが、HTAも全面的に協力することで、身体障碍者の活躍できるステージを提供できたことは、その後の障碍者スポーツの拡がりへの大いなる助走になったと考えられる。
 JTUが国際トライアスロン連合(ITU)の理事国として、トライアスロンのパラリンピック参入をアジェンダの射程に入れている最中での出来事であった。
 これらのことが、平成28年(2016)、リオデジャナイロ・パラリンピックにおいて、山田敦子選手(現・円尾)の出場につながっていく。国内ではクリーンピア三木大会から始まり、頂上の世界選手権シリーズ横浜大会まで、さらには世界で経験を積んだ山田選手は、競技力向上にたゆまぬ努力を重ね、視力障害カテゴリー部門で9位となり、惜しくも入賞は逃したが、これも、先達があってこその快挙であった。

■2010年代、トライアスロンはブームにも似た拡がりを見せる……
 東京マラソンの成功に追随してか、大都市での市民型マラソン(制限時間の規制緩和)が、大阪、神戸などで実施されるようになり、ランナーの増加と共に、その余波がトライアスロンにも訪れる。全国的にもそうであるが、兵庫県にもJTU会員の増加が顕著になり、また大会数も増加していく。兵庫県も年々、会員は900名に届くところまで増加した(2017年)。
ビギナーが参加しやすい距離の短いレースならば、チャレンジしやすく、マラソンのみならず、トライアスロンも楽しみたいという市民が増えていく。
 平成21年(2009)、横浜において、世界最高峰のエリートレースであるITU世界選手権シリーズ横浜大会が開催され、合わせて、エイジグループのカテゴリーも併設され、BSによるライブ放映も相まって、トライアスロンはオリンピック参加から10年足らずなのにもかかわらず、その中核競技であるという実像が徐々に浸透していく。。
 平成24年(2013)、待望の「2020オリンピック・パラリンピック」の東京開催が決定すると、その影響は様々な場面で現れていく。平成27年(2015)、兵庫県においても、県体育協会が、兵庫県からオリンピアンを輩出しようというプ「スーパーアスリート指定」プロジェクトが始まった、期待できそうな数少ない選手に重点的な強化策を施すという試みである。現在、延べ6名が選ばれ、オリンピック代表を目指して、険しい道程を歩んでいるところである。
 平成28年(2016)、トライアスロンは「希望郷いわて国体」において、正式競技としてデビューした。成年男女各2名(計94名)で、8位入賞を目指して戦ったが、澤潟大樹選手が5秒差で惜しくも9位、前田隼矢選手が15位、女子は波多江苑子選手が31位、中島聖子選手が34位という悔しい結果となった。いずれもバイクでチェイスパック(第2集団)に入れなかったことが遠因だったが、次への闘いにつながるレースだったと評価できる。。
 この年、長年、親しまれてきたグリーンピア三木トライアスロン大会が終わりを告げる。会場が民間業者に払い下げられ、新たなレジャーリゾート施設に再生されることになり、プールやバイクコースが設営できなくなったためである。29回を数え、近畿ブロックにおけるトライアスロンの登竜門であった大会が消滅したことは、誠に残念であった。
 トライアスロン大会の数や会員数の増加は、大変喜ばしいものの、一方で、トライアスロンの練習が不十分なままチャレンジする初心者や、あるいは経験者であっても体調管理を自覚しないで、レースの臨む傾向も散見されるようになったのも確かである。
 とりわけ、平成27年(2015)には全国で6名もの水死事故が起こり、JTUは安全管理徹底への緊急声明を発表し、あらためてトライアスロンにおける自己管理の重要性を呼びかけた。「公平と安全」、自然環境のなかで行われるトライアスロン大会において、可能な限りの安全対策が求められる時代になったのである。

■2020TOKYOへ、そして、その後の展望へ
 そんな時代ではあるが、2020東京オリンピック・パラリンピックへ、兵庫県から代表選手を送り出したい、という目標に向かって、県体協を始め、関係団体との協力のもと、総力をあげてチャレンジしていく。また、国体においても8位入賞で、天皇杯・皇后杯の得点に寄与することについても変わりはない。そのために強化指定選手への様々な支援も行っていく。
 平成26年(2014)に始まった県体協の選手育成・強化事業に、翌年から参加し、猪名川町に拠点を置く「チームブレイブ」(八尾彰一・監督)の協力を得て、強化選手の底上げをはかり、平成28年(2016年)には、世界を目指すスーパーアスリート養成事業にも参画し、2020東京を目指す「夢」を追いかける選手たちへの後押しを進めている。もちろん、平成30年(2018)の「福井しあわせ元気国体」での8位入賞は大きな目標であることに変わりはない。
 また、パラリンピアン・円尾敦子選手始め、後に続く選手への支援も、県障害者スポーツ協会とともに行っていきたい。
 身近に全国的なレベルのJTU公認大会があることが、なによりも普及にも効果があることは、国際トライアスロン連合(ITU)のワールドカップや日本選手権・ジャパンカップなどを開催することの多い地域には、トライアスロンを愛好する人々が多いという事実が物語っている。
 平成30年(2018)からは、グリーンパークトライアスロンin加西大会も第8回となり、事前のトライアスロン教室の複数開催や、定員増など、回を経るごとに、質・量の充実を図っているところである。
 ただ、やはり問題なのは、学校教育現場のなかに足場を持たない我々にとって、成長期の真っただ中の子どもたちへのアプローチができないところに普及の難点がある。平成14年(2002)には、JTUが中学生に向けて普及キット(ビデオ・セット・指導教本)を作成し、全国の中学生に向けて普及をはかろうとしたが、教員の方々にとっては、新たな仕事を増やすことに繋がり、残念ながら、これと言って目立った効果は現れなかった。
 当然、兵庫県においても地域で支えられるように、指導者と学校・クラブとしての活動ができる場を確保し、その運営のための財源が必要なのは言うまでもない。
 例えば、トライアスロン経験のある教員志望の学生が先生として赴任した学校で、いかにトライアスロンを子どもたちに伝えることができるか、さらにはJTUの指導者養成資格を獲得した会員が地域でどのように教えることができるか、そして気軽に参加できる教室や講習会、練習会をいかに増やすことができるかなどは、いまだに課題であり続けている。
 次いで、単体の競技にくらべ、複合競技だけに活動の費用と時間がどうしてもかさむことも、、大学生にとっては高いハードルとなっている。
 また、組織運営体制としても、常勤事務局員の雇用にまで立ち至っていないことは、そのまま現在の協会の財政面における非力を証明している。いわば、日常的に協会事務局を運営していくプロが必要になる時代がきているという認識である。これらがクリアできるのであれば、さらに、活動の幅が広がるのは間違いなく、10年前からの最も大きな課題の一つであることに変わりはない。

■未来へと育つスポーツ、トライアスロン。「ひょうご七つ星」に込めた想い
米国カリフォルニアの太陽と青空と水のもとで生まれたトライアスロンは、すばらしくバランスのとれたスポーツとして、今後も多くの人々をかならずや魅了していくことだろう。そして、世界を相手に戦うことがあたりまえという認識を持つアスリートが続々と誕生し、一方で高齢になってもそれぞれのエイジグループで楽しむ人々が増えていくことは間違いないといっていい。
 里山と日本海と瀬戸内の海に恵まれた自然を持つ兵庫県のトライアスロン界にとって、環境との共生をはからねばならないのは自明である。なぜなら、自然環境が悪化して滅びるようになれば、我々の舞台もまた滅びるからである。自然のなかでのトライアスロンがトライアスロンたる由縁であって、作られた競技場の閉ざされた世界だけではトライアスロンはありえない。
 兵庫県トライアスロン協会は、その礎を築き、気軽に楽しめるスポーツ環境の実現をめざし、奥深い身体感覚と優れた知性の働きによって、「Thinking global, acting local」という姿勢で、明るくさわやかで、民主的な運営を行なうスポーツ競技団体でありたい。

協会設立30周年を迎えるにあたり、原点に立ち返り、兵庫県トライアスロン協会の理念を再構築したのも、その決意の表れである。兵庫県トライアスロン協会の理念「ひょうご七つ星」に込められた想いは、次代を担う協会のリーダーたちへの贈りもの、である。
 最後に、兵庫県トライアスロン協会の今後の益々の発展を祈念して、「30年の歩み」を閉じることにする。

●歴代会長・副会長・理事長
1987(昭和62年)会長 石井 一 / 副会長 末松三芳、島田五三郎、溝田弘利 / 理事長 米田和正
1988(昭和63年)会長 石井 一 / 副会長 末松三芳、島田五三郎、溝田弘利 / 理事長 提 勲
1989(平成元年) 会長 山村康六 / 副会長 末松三芳、島田五三郎、溝田弘利 / 理事長 提 勲
1994(平成6年) 会長 山村康六 / 副会長 杉田 哲 / 理事長 提 勲
1995(平成7年) 会長 末松信介 / 副会長 的場諄吉、石原修三 / 理事長 提 勲
2007(平成19年)会長 末松信介 / 副会長 的場諄吉、石原修三。関 芳弘 / 理事長 提 勲
2009(平成21年)会長 末松信介 / 副会長 的場諄吉、石原修三、関 芳弘 / 理事長 渡邊 仁
2014(平成26年)会長 末松信介 / 副会長 的場諄吉、関 芳弘、榎本和夫 / 理事長 渡邊 仁
2016(平成28年)会長 末松信介 / 副会長 関 芳弘、榎本和夫、水野晴夫 / 理事長 渡邊 仁

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